貴方の見ているドメインは

ドメイン www.ah818.com

このページについて

    「わたくし儀ぎ、金がなければお前様まえさまとも夫婦になれず、お前様の腹の子の始末しまつも出来ず、うき世がいやになり候間そうろうあいだ、死んでしまいます。わたくしの死がいは「た」の字病院へ送り、(向うからとりに来てもらってもよろしく御座ござ候。)このけい約書とひきかえに二百円おもらい下され度たく、その金で「あ」の字の旦那だんな〔これはわたしの宿の主人です。〕のお金を使いこんだだけはまどう〔償つぐのう?〕ように頼み入り候。「あ」の字の旦那にはまことに、まことに面目めんぼくありません。のこりの金はみなお前様のものにして下され。一人旅うき世をあとに半之丞。〔これは辞世じせいでしょう。〕おまつどの。」

    河原町の上手を出外れると、やはり一帯は桑畑の中を、路はだんだん上り勾配をましながら川から遠ざかつて行くのだが、左手に迫つている山腹の下方にとりつくと、そこから急に路面も赤土になつて、途中でいくつも屈折した坂路が山を越えて杉倉の方につゞくのである。

    半シャツの男は房一の前に来て、はじめてお辞儀らしい格好をした。

    練吉はさつきから一人で喋つていた。

    「それでは、又あらためて伺ひます」

    練吉と房一は、川沿ひの路を、肩を並べて自転車を走らせていた。

    江戸時代ばかりでなく、明治時代になって東海道線の汽車が開通するようになっても、先まず箱根まで行くには国府津こうづで汽車に別れる。それから乗合いのガタ馬車にゆられて、小田原を経て湯本に着く。そこで、湯本泊りならば格別、更に山の上へ登ろうとすれば、人力車か山駕籠やまかごに乗るのほかはない。小田原電鉄が出来て、その不便がやや救われたが、それとても国府津、湯本間だけの交通に止まって、湯本以上の登山電車が開通するようになったのは大正のなかば頃からである。そんなわけであるから、一泊でもかなりに気忙きぜわしい。いわんや日帰りに於てをやである。

    河原町の対岸に俗称河場と云ふ地名の部落があつた。そこは現在では河原町の区域に入つているが、昔は他領であつた。純粋な農家、主として自作農ばかりの集りで、対岸の町から眺めると、藁葺の低い屋根が樹木の間に背をこゞめているやうに見えて、そこに住んでいる人達は、河原町の人々が、田舎に似ず一種洗練された身なりや顔つきなのにくらべると、明らかに泥臭い、鈍重な身ぶりであつた。その農家の中で一軒だけ瓦葺きの、構へも他の家より稍大きな家があつて、これが此の物語の主人公である房一の生家、高間家であつた。

    練吉は意外なことを耳にしたといふやうにちよつと房一を眺めたが、熱心に聞いていた。

    田舎町の習慣として、婚礼とか祭礼とか、葬式、法要などが盛んで、狭い町中がお互ひの家の奥向きの様子など手にとる如く知り合つているほど交際が密であつたから、家ごとに何かあるといつも同じやうな顔ぶれ、つまり殆ど町中の人が時期と場所を変へただけで寄り集ることが多かつた。そして、その人達の座席の順序が家の格式財産にしたがつてきちんと決まつていて、上座に坐る人はどの家へ行つてもあたり前のやうに臆する所なく上座に坐るし、下座の人も唯々いゝとしてその席につき、決してその順序を乱すやうなことは起きなかつた。他村からこの町に移り住んで、町の商店区域で手堅く商売をやり、だんだん基礎もでき、町の交際範囲に入られるやうになつた者でも、席順はずつと下座であつた。若し誰か気骨のある男があつて、これを破らうとすると、彼は後々の場合あらゆる方面からの圧迫をうけて遂には折角築き上げた商売上の地位でさへ見すてなければならなかつた。それほど此の「河原風」といふものは根強く牢固たるものであつた。

    「何んの。面倒だからこのまゝ行かう」

    今泉はうつむき気味に、すぐ前に坐つている庄谷の背中を見つめていた。するとその肩に一本の糸屑がくつついているのに気づいた。彼はそつと手を伸してつまみ上げた。庄谷はうしろをふり向いた。その白味の多い小さい目で無意味ににやりとした。そして又元の眠つたやうな無表情にかへつた。

    「どれ一つ診ませうかな。――ふうむ、これあどうしたのかね、ハッパでやられたのか」

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40