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    盛子の顔からはもうあの一人でうれしがつているやうな無邪気さは消えていた。代りに現れたものは物柔い優しさに満ちた注意深さだつた。

    今や彼女の全体が、一箇の人間としてのあらゆる陰影を含む全性格が何かしら重要な変化を来した。初産のためか下腹部のふくらみはさう目立つほどではなかつたが、それでもあの特長ある身体つきを変へるには十分だつた。全体にひどくゆつくりした、内省的な落ちつきが支配していた。たゞ眼だけが、張りのある眼だけが稍神経質なうるほひを帯び、どこかとび出したやうに見え、一種の弱々しさと複雑さがそこに動いていた。ふしぎな変化だつた。そこには五六ヶ月以前の盛子の代りに、盛子によく似た、だが何かぽつてりとした、重たげな、ゆつくりした女がいた。あの長身が別に寸つまりになつたわけではなかつた。しかるに以前の靱しなやかさは姿を消してしまひ、又あの特長ある語尾の跳ね上りも聞えなくなつてしまつた。張りのある眼も、いつも下腹に気をとられているためか、何となく伏目の感じになつていた。が、どうかした瞬間、びつくりしたり感動したりするときにだけ、突然あの盛子が殻を破つたやうに顔を出すのであつた。それはあの、結婚当初の盛子といふよりも、すでに十分成熟した、娘らしい硬かたさのすつかりとれ切つた、眩まぶしさのない代りに何か直接的な女らしさといふやうなものであつた。

    「それあ、もう、掘つても掘つても屑みたいなものしか出ないつて云ふんだがね。まあ、天領の時分に良いところはそつくり掘り上げてしまつたんだらうね。その山をまだ見所があるつて云ふんだから、あてになるやうなならんやうな話だあね」

    「怪我人ができたのかね」

    房一は廻転椅子にそつと腰を下して、もう朝から何度眺めたかしれない診察室の中を見まはした。間もなくその不恰好な体躯がぢつと動かなくなつた。彼が身動きするたびに現れていた一種晴れがましい表情の代りに漠とした思案の線がその顔に現れていた。――この河原町に帰つて開業しようと決心したときにどこからとなくやつて来た考へがある。それは彼が河原町を出ている間にいつとなく薄れていたものだが、思ひ出すたびに徐々に形がはつきりして来た。あの河原町に奥深く流れていて彼を何かしら圧迫していたもの、それは何故か彼に跳ねかへさせたい心持を抱かせ、同時に身体が熱くなるほどの一種盲目な力を駆り立たせるのが常だつた、それらの捲き旋回する目に見えない風のやうなもの。それは幼時からずつと房一の底から動かし、支配しているものだつた。

    「これから又お出掛けかね」

    「いや」と、喜作は相変らずきつぱりと、煩うるさがりもせず答へた。

    例の奉祝行列のお終ひに小谷から慰労宴をやらうと云はれたときに、房一は道平が練吉の診察を受けたまゝになつているのを気にかけていたことを思ひ出し、練吉をも加へて小谷と二人を招待しようと云つたのだが、小谷はそれはそれ、これはこれと云つて聞き入れなかつたので、改めて今二人を料亭染田屋に招いたのであつた。

    足が冷えて来たので、風呂の火でも見ようと立ち上つた時だつた、裏口の戸がゆつくりと外から開いた。

    「それとも、あれかね。やつぱり日露戦争のときみたいに、船で吉賀の先の浜へ上つてそれからやつて来るんかね」

    そして、徹夜の仕事を連続していると、視神経の疲れが何よりの悪刺戟になることがのみこめてくる。もっとも、私は強度の近視のところへ、遠視が加わったから、メガネをかけても外してもグアイが悪いのである。それがメガネのツルを支えている鼻梁の疲れを代表者として頭の廻転に鈍痛を加えてくるのである。

    男はじろじろと房一を見ていた。

    「やっぱりチブスで?」

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